落日燃ゆ。。
こんにちは。。密かにオリンピック広島・長崎共同開催を切望しているmartです。。
広島は2回しか行ったことないけど、長崎は何度も行ったことあったから、もし共同開催が叶ったらぶっちゃけ東京よりも何倍も嬉しーです。。笑
確かに戦争とか平和の意味で開催できれば、改めて世界にいいアピールにできると思うけど、やっぱ現実はオリンピックを何百キロも離れた都市で開催するということは難しーことなのかな~??
ワールドカップでさえ、日韓でできたんだから、オリンピックだってできそーなもんですけど。。(軽い。。爆)
ともあれ、オリンピック委員会がダメっていうんですから状況は芳しくないっつーことですね。。
確かに、あんな山だらけの長崎のどこに競技場とか作るんだろー??とも思いますが。。
ただ、地形を除けば原爆以外にも、広島は宮島がありますし、長崎は出島や教会、中国仏教のお寺などなどそれぞれ文化的価値が高い観光地が目白押しです。。
むしろ、逆に原爆を観光地として扱ってしまうのは不謹慎かもしれませんね。。
さて、今日はこんな歴史のお話。。
と言っても、今日読み終えた本のお話なんですけどね。。
話は100年以上前から始まります。。
1878年2月14日 福岡県の石屋に1人の男の子が生まれました。。
名前は広田 丈太郎。。
後に第32代総理大臣に就任する広田 弘毅です。。
田舎の学校を卒業して、東大に入学。。
外務省の見習いから始め、大正・昭和で中国・オランダ・ロシアなど各国の大使館勤めを転々とする。。
自ら図らずという信念の下、出世を望まない代わりに、諸外国に対する外交の態度が各国外交官に高く買われ、日本に戻り外務大臣に就任。。
私の在任中に戦争は起こさない。。
と断言したが、関東軍の暴走による中国の侵略。。
中国との交渉というより、軍の説得役になってしまった大臣の役目。。
結果、何度も中国との交渉の機会を持とーとしては、軍部に潰され続け、盧溝橋事件から南京大虐殺に至るまで、結局、戦争を止められなかった。。
第2次世界大戦勃発。。
この時、重臣として東条 英機首相にも諸外国との和平交渉を進言するも、軍人上がりの東条首相は聞き入れない。。
そして、戦後の極東裁判。。
自ら1度も証言台に立つこともなく、むしろ戦争を止められなかった責任から、自ら死刑を望む覚悟で、黙々と裁判に出廷。。
結局、文民としてはただ1人の死刑宣告。。
結論を知ってて、読んだんですけど、読み終わった後にすっごく悲しー気持ちになってしまいました。。
武力を限りなく排し、話し合いという一番、基礎的な解決方法しか考えない外交交渉。。
しかも、皮肉なことに広田を除く残り6名のA級戦犯死刑囚はみんな広田の外交交渉を武力で妨害した軍人たち。。
最後まで、自己弁護も愚痴も何も言わずに絞首台に立った元総理大臣。。
一番、印象に残った言葉が
自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする。。
50年と言わず、あと20年あとだったら、きっと戦後の日本に信頼回復のためにこの人は大活躍していたと思います。。
僕はドキュメントというと演出掛って、読まない(というか読めない)んですけど、これは筆者の感情を極力抑えられていて、疑うことのない史実が書かれていました。。
物語に近いのですが、最後はやっぱ救われない気持ちで満たされてしまいます。。
どーでもいいんですけど、終わった後に何となく
という曲を聴いて、益々感情が高まってしまいました。。
この一生だけでは辿りつけないとしても
命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ
広田 弘毅がやったことはその死を含めて、当時の日本のため、世界のため、引いては後々の日本のためにと思ってやったこと。。
そーゆう、故人の想いを引き継いだ結果に現代2009年の12月ってのがあるのかな~??
と思い、1人静かに聖夜からの朝を迎えていました。。